発達凸凹息子との学習や生活あれこれ

小学校5年(中学3年になりました)の発達凸凹の子供とのかかわりで工夫したことや感じたことの記録。子供との関わりも含め。が、母親としてだけでなく、自分の好きなことをしようとか、自分で楽しかったな、面白かったなと日記のような、思うことも書いています。この頃そっちのほうが多いかも(笑)

旅に病んで夢は枯野をかけ回る

私は旅行が好きなんだなと思う。
こんな事態で全然行けないけど。

上の句は、芭蕉が亡くなる4日前に書いた句らしいけど。
まあ、あの時代、旅行好きと言っても、
今と全然違って、  
自分の足で歩き回るのが旅行だったんだろうが。

なんで、ここに行き着いたかというと、
この間、美容院で、アンパンマンの話になり、
(昔から担当の人がここ何年前かに
お子さんを産んだママ美容師なので)
やなせたかしが、高知出身だから、
アンパンマンミュージアムは高知にもあります
(うちは、子供小さいとき、高知のアンパンマンミュージアムにも、アンパンマン号にも乗ったが)
という話に。

やなせたかしについて調べていたら、
やなせたかしは、
生まれたあと、親の転勤で中国へ。
その後弟が生まれたが、 
父がその後もアモイに転勤になり、
家族が離散。

その後、父親が客死して、
その後高知の伯父にひきとられ、
その後母親が再婚したので、 
ずっと、医者をしていた伯父に育てられる。
伯父が趣味人であったので影響を受けたとある。

なんか読むとすごい経歴というか。

昔って、こういうの当たり前だったのかな。
母親は、子供を連れて行かなかったのだな。
でも、そういう時代だったのかな。

でも、この趣味人の伯父に育てられたから、 
やなせたかしになったのかなという気も。

で、客死を調べてたら、 
他国や旅先で亡くなることと。

で、
いろいろみてたら、
タイトルの句が。

この句は、
解釈が色々あるようだけど、

一般的な解釈は「旅の途中で病床に臥していながら、夢の中ではなお枯野をかけめぐっている(芭蕉事典・春秋社)」となるようだが。

ひとつは、夢の中では自由に駆け回ることができるのに、現実の私は病に倒れもう旅に出ることができないという悲観的な解釈です。草木が枯れた冬の野原が舞台となっていることからも、芭蕉の旅も終わりに近づいてきていると感じるでしょう。

もう一方で、今は旅の途中で病に臥しているが、まだ夢の中では以前と同じく枯野を駆け回っているという希望が込められているという解釈。

わたしは、最初読んだとき、後者を思ったのだが。
というか、松尾芭蕉が旅好きだったようなので、
旅という病に冒されてという意味だと思ったのもあり。
で、読んだ瞬間、今の状況を思ったりした。

早く、かけまわりたいものだなと。